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- 作者: 茂木健一郎
- 出版社/メーカー: PHP研究所
- 発売日: 2005/03/19
- メディア: 単行本
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はじめに
・それぞれの時代に手に入れるのが難しいものを生み出す人間の能力が最も高く評価され、求められるのである
第1章 創造性の脱神話化
・ピカソであれ多作だった。質がどうのこうのなどとやかく言わず、生み出すことの方が先決なはずだ
・合理的に予想可能なものでない、コントロール不可能な要素をいかに許容し自らの生に取り入れるかという覚悟が必要となる
第2章 論理と直観
・創造性において直観の果たす役割は大きい。直観はしばしば論理から逸脱する。単にランダムに逸脱するのではなく有機的に意味を生成する方向に逸脱する所にポイントがある
・直観を生み出すプロセスそのものは無意識のものであっても、「いける」という感覚は、意識の中で把握される一つにクオリアである
・カオティックな世界に投げ出されているにもかかわらず、少数の明示的ルールに従っていればものごとが解決すると思い込んでしまうことのほうがよほど恐ろしい
・リアルタイムな判断力はスポーツで養われる。机に向かって勉強をしているのでは、リアルタイムに状況を把握して判断する能力を養うことはできない
第3章 不確実性と感情
・難の方針もなく、価値基準もなくただ単に勝手に動いているものの集まりからは意味のあるものが生み出されない
・感情の大切な働きは、何が自分の生存にとってプラスで、何がマイナスなのかの正解が分からない状況、すなわち不可実さに対する人間を含む生物の適応と関係している
・既知の確実な報酬源を利用することと、未知の不確実な報酬源を探索することのバランスをとることが何よりも大切
・長期的な報酬を得るために、短期的な報酬を犠牲にするということはすなわち時によっては不確実な報酬を確実な報酬よりも優先させるということである。
このような不確実さの尊重が創造のプロセスにはかかせない
・確実な報酬を得るのと同じくらい、報酬が得られるかどうか分からないという不確実性がうれしいというように表現するドーパミン細胞が発見された
・自分の今おかれた状況の認識における心理的な安全基地が積極的に探索する気分になるための必要条件となる
→根拠のない自信
・どんなときにうれしいか。「ドーパミンマネジメント」が人生を決める
・資本主義をその現状に合わせなければならない「杓子定規」として捉えるのではなく、その中であれば人生の本性に反しなければ何をやっても良いという「探索のための安全基地」と捉える
第4章 コミュニケーションと他者
・創造性の発露の最高形態の一つは自分自身が変わること
・他人の存在に触発されて自分の中から新しい言葉が生み出される。言葉の生成に伴って新しい自分さえ生まれる
・人間は様々な局面において無意識のうちに「ふり」をする存在である。人間は自らおかれた文脈に合わせたふりをすることで自らを変身させ、新しいものを創造する
第5章 リアルさと「ずれ」
・私たちの脳の中にある図式と、世界の中の現実とのずれこそが私たちを創造的であり続けるために必要な栄養なのである
・私たちの脳のアーキテクチャは外界へいったん出力して、それを感覚として入力する事なしでは情報のループが閉じないようにできている。
・日記を書く私と、それを読む私は別の私
・自分の体とは独立したダイナミクスをもつ環境が提供する「外部性」が脳の仮説を修正し洗練していくための必要不可欠な条件である
・コンピュータとばかり向き合っていると、現実とのずれ、ノイズの混入が起こりにくくなってしまう
第6章 感情のエコロジー
・自分が安泰だと思い込み、その状態に安住している人は創造的になることはできない。創造的である以前にこの世界の中で生きるということのリアリティに接続することができない
・脳が苦しいと感じるときは、確実に脳が鍛えられている。
・あまりうまくいかないときは、自分が出そうとしているアプトプットに繋がる感覚が、ユニークに把握されていない。対象をつかんでしまえば、あとは無意識から何かが生み出されるのを待っていれば大体うまく行く
・創造性は空白の領域がないと生まれない。朝から晩までずっとオンラインの情報処理に忙しい人は優秀な実務家にはなれても創造者にはなれない
・退屈は自分が裸でこの世界に投げ込まれているという感覚のすぐそばに或る。自分が「今、ここ」にいるということを退屈しているときほど強く感じることはない。
・うだうだ悩むということは、結局ああもしたいこうもしたいと自分の志向性が向かう先が無限定に広がるから
・複数の感覚経路から情報が一致するときそこにリアリティが立ち上がる
第7章 クオリアと文脈
・現代人は、文脈ラベルを交換することにクールな喜びを感じがちであるが、対象を前にして、自分が心の中で感じているクオリアを曇りのない感覚でみつめるということはあまりしない傾向に或る。
・クオリアはスローメディアである。すでに頭の中に叩き込まれた様々な知識、文脈をいったんは「エポケー(判断停止)」しなければ、心の中のクオリア自体には到達することはできない
・文脈を確認するためだけの読書は意味をなさない
・一人称におかれた文脈をはなれては決して何も生み出せない
・創造性とはほど遠いひとほど、やたらと対象を文脈づけたがる。(うんちく)
・創造性を支える文脈とは、自らのおかれた生の現場を自分のこととして一人称的に引き受ける文脈である
・ちょっと目先の利くクレバーな若者にはありがちなことだが、3人称的な文脈を並び立てることは、肝心の1人称的生としての自分を省みないというモラルハザードに陥る可能性がある
・クオリア原理主義とは自らの生の一人称的文脈に寄り添うこと。そこから逃げないと覚悟することである
・3人称的文脈は乾いた文脈である。そこにはずれやぎこちなさがない。
第8章 一回性とセレンディピティ
・大事だからといって、何度も経験すればよいということではない。一度経験したことを人生の自然な流れを曲げ、無理してまでもう一度経験してみることには弊害が多く、利が少ない
・一回だけしか起こらないからこそ、通り過ぎてもう2度と戻ってこないと分かっているからこそ、その一回性の出来事は脳内の長期記憶のアーカイブに深く潜り込む
・生きてく上で、重要なものとそれ以外があり、重要なことだけを押させておけば良いと考えるのは、自らの思考の周りに人口のガラス瓶を作るようなものである
・偶然はそれを受け入れる準備ができた精神のみに訪れる